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■侵入者不在
出張先から戻った海馬は、誰も居ない社長室に違和感を覚えていた。
時刻はとっくに定時過ぎ、別段多忙な時期というわけでもないので残業の人間が少ないのは当たり前である。いたとしても社長不在の社長室にわざわざ待機して決裁を待つ社員はいない。社員は、だ。
『奴』が現れるのにはある一定の規則がある。
まず、早朝出張などの前日には現れない。気を利かせているのだろうか。そして出張中は現れない。まあ現れていても気付かないだけだが。
定時を過ぎないと現れない。他の社員の出入りが多いと奴も面倒なのだろう。同じ理由で定時すぎても社員が出入りする慌しい時期には現れない。現れてもすぐ姿を消す。
今日はそれらのどれにも当てはまってない、奴が現れる日に属する。まあ明確な規定を作ったわけではない。現れなくても何ら不思議では無いが・・・疑問は、残る。
この法則を導き出すのに手間がかからなかった。そのくらい的確に奴はそれを実行していた。
それが、実行してこないのは心情の変化かやむを得ぬ事情があるか。もしくはこちらのスケジュールが把握できなかったか。
・・・そう考えると今まで話したわけでもないスケジュールが奴に知られていた方に疑問を持つべきだろうか。立派な情報漏えいではないか・・・
「明日は午後から役員会議・・・」
机に積んである書類もそう多くは無い。
海馬は明日の午前中に片付けようと思っていた書類に目を通し、黙々と捺印を押し始めた。
ただ登校しただけだと言うのにこんなに視線を浴びる生徒が自分の他にいるのだろうか。
海馬は視線とひそひそ話にウンザリしながら久し振りに自分の所属するクラスの教室へ足を踏み入れた。
教室に入っても珍しいものを見るような視線とひそひそ話が消える事は無い。
ただ、ひそひそでは無く、堂々と声をかけて来るグループが一つだけあった。
「海馬ぁ、珍しいなお前が学校に来るなんてよ」
「海馬君、久し振り」
適当に返答しながら、そのグループの中に『奴』の姿を発見することが出来た。いや、正確には奴の体というか・・・二重人格と言うのはよく分からない。ただ、確かに別人であるのは理解できた。それと同時に把握する。『奴』が現れなかった理由も。
「獏良君・・・無理しない方がいいわよ?」
「そうだぜ。休めば良かったのによ」
「ん・・・平気だよ」
発言者は笑ってみせているが、大きなマスクをしてても窺える平気そうには見えない顔色の悪さでは説得力がない。
登校している所をみるとインフルエンザではないのだろうが、重そうな風邪である。声も掠れている。
そんな体調では夜無駄に出歩くのも困難だろう。心情の変化ではなくやむを得ない状況のほうだったか・・・
海馬は小さく溜息をついた。その溜息に何故か安堵が含まれていた事には気付かないふりをする。
わざわざ登校して着席したのにとんぼ返りするのも不審だと、一時限目の授業だけ受けて早々に会社へ向かう事にした。とっくの昔に習った事を今更教えられるという時間は無駄以外の何ものでもなかったが仕方が無い。
奴の身体の持ち主に目をやると、起きているのがやっとなのではと思える衰弱ぶりで授業を受けていた。そこまでして学校に来たいと思う理由が到底理解できない。
もう一つ気になるのは教師の視線だ。まるでさっきまでの生徒とまったく同じではないか。
ただ座っているだけで授業妨害か・・・予定を変更して一時限目の中盤で早退する事にした。
授業中の廊下はやけに静かで自分の足音だけが響いて聞こえる。
誰にも会わずに下駄箱へと辿り着く。
精々遠くに授業をする教師の声が聞こえる程度。他に他人が音を立てているものが耳にはいることはなかった・・・はずなのだが。
「よぉ社長ぉ。わざわざ登校したのに一時限目も終わらずに早退とはらしかぬ行動だなぁ・・・午後から役員会があるからって午前中に部下から催促される前に捺印押しじゃなかったのかぁ?」
よく知った声だった。
振り返ると予想通りの人物が立っていて、一般人ならいつの間に、と驚く所である。だがあいにく奴が神出鬼没なのはとっくの昔に知っていて驚くことは少し無かった。
「昨日はどこぞの部外者に邪魔される事も無かったからな・・・昨日のうちに終えている」
「へぇそうかい。そりゃ良かったな・・・じゃあ学校は暇つぶしか?クク・・・」
少し訂正すべきか。良く知った声よりは掠れて声を発するのも苦になっている様子だった。
表情だけはいつもの余裕を含んだ笑みだったが、さっきまでの人格同様、その顔色では説得力が無い。
だが相手が普段どおりを演じているのだからこちらも普段通りに接するのが自然だろうか。
「貴様こそ何をしている・・・授業中だぞ」
「オレ様?ちょっと保健室に行くって理由つけて昨日拝めなかったセト様の顔を拝みにきただけだぜぇ?」
ニュアンスだけはいつも通りにそう言いながらバクラが歩み寄って来る。
足音はない。空気の動きすら感じられない。非科学的な事を言ってしまえば幽霊のようだが、背後から抱き付かれるとやはりここに存在するものだと実感させられた。
「会えないと分かってて会えない三日より会えるとわかってて会えなかった一日の方が断然堪えるな・・・」
しっかり密着されて背中から伝わってくる体温は人間との接触よりも動物との接触に近いものを感じた。
・・・よくも、この体温で立って歩けるな・・・体重をかけられて抱き付かれている状況、普段なら振り払う所だが多めに見る事にする。
「・・・そんな様子ではまともに授業も受けられないだろう・・・何の為に学校へ来たのかわけがわからん。気の迷いか?」
「それはオレ様じゃなくて宿主に言って欲しいねぇ・・・オレ様だって休むべきだと思うぜ?・・・だがまあ、気の迷いのおかげでお前に会えたんだから宿主に感謝しなきゃな・・・」
バクラは喉の奥でククッと笑った。
こいつは・・・いや、こいつの宿主が呼ぶ方もだが、優先順位というものを激しく間違っているとしか思えない。
まあ、価値観というものは人それぞれ異なるわけで、優先順位のつけ方にもあまり大きな事は言えないのだが・・・
「・・・瀬人様の体温が心地良い・・・」
視線で表現するなら定まっていない、朦朧とした口調で呟いきながら抱きつく力を強められた。
普段言葉の一つ一つに裏がありそうに話すそれとはかけ離れたもので、風邪の菌はよほど強力なものだと創造できる。
「・・・氷水の方がよほど心地良いのではないか・・・?」
「・・・・・・・・・・会議まで・・・時間あんだろ・・・?」
更に抱きつく力を強めてきた。
意図は何か。保健室にはいきたくない、会議までの時間学校にいろ、それとも・・・
「・・・貴様の事だ。来週の俺の予定まで把握しているのだろうな」
「ん?ああ・・・来週は特に大きな予定はないはずだが・・・」
突然の問い掛けを疑問に思ったのか、バクラは顔をあげて視線を合わせて来た。
「その時、お前はどうしてる?」
きょとん、という表現が似合う表情へと変わるその顔だったが、視線はそのままこちらを見ていた。言葉足らずなそれを表情から補おうとするように。
普段より思考が回っていない脳でもうまく意図が通じたようだった。バクラは不敵に笑って見せた。
「勿論、風邪のウイルスなんて消滅させてお前の会社に進入させて貰うぜ。もう早退するわ・・・宿主には悪いけどまあ宿主だってさっさと治したいだろうしな・・・」
風邪はウイルスではないだろう・・・と口を開きかけて心なしかさっきよりも元気になったような雰囲気に気付く。案外こいつは単純なのかもしれない・・・
「そうだな。早く治せ。こちらも多少は調子が狂うからな・・・」
「な、なんだ・・・?風邪がうつったか・・・・?」
心底心配そうな顔をしている。やはり思考能力は落ちているか。
「そうではない・・・とにかくさっさと治せ」
「??お、おう・・・」
このままではずるずる会話が長引きそうなので腑に落ちない顔のバクラを置いて去ることにした。
バクラは風邪により日常を崩された。そんな折こちらは日常に違和感を覚えた。
それは出会う前と後で、日常が変化していた事を認識する。
ペースを乱されているはずなのに・・・悪い気は、しなかった。
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