■代理の涙
遠くで子供が泣いていた。
誰かの名前を呼んで泣いていた。
泣く術を知らない。
呼ぶ名前もない。
泣く理由もわからず冷たい視線を送る。
泣く理由が見つかった。
しかし泣く術はわからない。
悲しみを笑顔として表情にしている人がいる。
泣く術を封印した人がいる。
悲しいのなら泣けばいい。
そのやり方を知らない人間の分まで・・・
異常気象、と呼んでもいいのではないだろうか。
その夜は雨だった。
ここが晴天の続く水不足地域ならばその異常気象もありがたいことなのだが、生憎水分は十分である。
ケテルブルク。年中雪が積もる街。
宿にて解散した後、ジェイドは部屋向かい眠りについた。
他の地方からすれば比べるまでもなく寒いこの街だが、その日は比較的穏やかな気候だった。
そんな特殊条件が招いたのか否か。誰かに呼ばれた気がして目が覚めた。
誰かに呼ばれた・・・?いや・・・違う。
誰かが、泣いていた。
泣き声が聞こえた。
それは夢の中の出来事であったはずなのに何故かすぐそばで起こった出来事のようで。
しかしそれはぼんやりしていて場所も姿も思い出せない。
聞き覚えの無い子供の声。それでも身近で、その泣き声が自分を呼んでいるように聞こえたのだ。
不思議なこともある。
ジェイドはカーテンを捲り外を見る。
いつもは音を立てずに緩やかに降りてくる空気中の水分が、何かをかき消すように音を放っていた。
暗い空間にふと浮かんだ姿。
ジェイドは寝つける自身がなかったので部屋を後にし、その姿を確認しに出向いた。
「・・・年寄りは早く寝るんじゃなかったのか?」
「早寝早起きなんですよ」
わざと気配を殺さずに近づくと、気配に敏感な相手はすぐに察してきた。
宿屋の入り口前。こんな夜遅くでは道に人なんているわけもなく彼一人きり。
こちらを振りかえる彼はいつも通り苦笑を浮かべて対応してきた。
「朝と言える時間帯ではないぜ?」
「えぇ。夜でしょうね。そんな夜遅く、こんなところで貴方は何をしているのです?」
いつも通りの苦笑にいつも通りの口調で訊ねる。
しかしそれはお互いに、『いつも通りのふり』をしているだけであることはわかっているのだ。
壁を作って探り合い。それは、自分を守るための術。現状を崩さないための防御。
「別に・・・ただ、外を見たくなってね」
それは事実。嘘は言っていない。
表面上を素直に答えることで内側を突かれることを防ぐ。
何故、内面を突かれることを恐れるのかわからないまま。
「外の景色なら部屋からも見れるでしょう。それに・・・満天の星空ならともかく、こんな雨雲のどこが見ていて楽しいのですか?」
「まあ・・・楽しいもんじゃないけどな・・・」
「そうでしょうねぇ・・・」
会話が途絶えると聞こえて来るのは雨音。
意識しなければ右から左に流れていくだけの音なのに、一度耳に入ると離れない。
ただの雨音。しかし何かの代理。
「・・・・・・・・・・部屋に、戻らないのか?」
話しかけるでもなく、ただ無言で居座り続けるジェイドに、ガイは言った。
そのニュアンスは単なる疑問ではなく、願望の混じったもの。
単刀直入に一人になりたいとは口にしない。理由を聞かれるのが恐いから。
隠しきれずに漏れ出した本心を見逃すほどジェイドは鈍感ではなく、相手がそこに触れられたくないこともわかった上で、あえて突き刺す。
「私が居ては、泣けるものも泣けませんか?」
「・・・っ!な、何を・・・」
雨音が強さを増す。
動揺をかき消してくれるように。それだけでは隠しきれないことはわかっているのだが。
別に、何があったわけでもない。
夢をみたわけでもない。
急に過去の記憶が鮮明に頭を過り、そのときの感情が込み上げ、現状況がふいに圧し掛かる。
きっかけがあったわけでもない。具体的に何が負担になっているわけでもない。
全てが偶然押し寄せてきただけなのだ。だからそんな感情が偶然降っている雨に消されればいいと思った。
「泣くことができるのは幸せです。泣く理由、泣く方法、泣く環境・・・全てが揃っているわけですからね」
「・・・あんた、俺が泣きたいこと前提で話を進めてるよな・・・」
「おや、違いましたか?」
そう肩を竦め、いつも通りに言われると、これ以上のごまかしはきかない。
隠し、きれなかったか。
「・・・・・どーだろーなー・・・・もう、随分と涙なんて流してないから忘れたよ」
「そうでしょうか?そーゆーものはそう簡単には忘れないと思いますよ。試してみたらどうです?」
「・・・そんなに俺を泣かせたいのか、あんたは」
「ええ、それはもう・・・」
重力に逆らうことなく落ちる雨を見つめる。
自分のやりたいことに逆らったって辛いだけだ。
「・・・どうぞ、泣く術を知らない人間の分まで」
「はは・・・それは大役だな・・・・・・残念だが、その役目はこの異常気象に任せるよ」
「ふむ・・・ま、それも悪くないですね」
雨は降り続けた。
重要な大役を任されて。
遠慮を行うことなく、上から下へ。
しばらくの間、雨を眺めていたガイだったが、小さくため息をつくと言った。
「・・・そろそろ部屋に戻るわ」
「おや、気は晴れましたか?」
「それなりにな。どっかの誰かさんが案外世話焼きだってこともわかったし」
「それは大発見でしたねぇ」
いつも通りの『ふり』からいつも通りの口調に戻し、対話する。
雨は、まだ降り続く。
今ならばこの雨に多少隠せる気がして、普段口にできない言葉も言えそうに思えてくる。
「・・・ガイ」
「なんだよ」
「ああは言いましたが、やはり私は笑顔の方が好みですねぇ」
ニコニコと笑いながら。
ガイはわざとらしくため息をついた。
「いきなり何を言い出すかと思えば・・・」
「まあたまにはいいでしょう。異常気象なわけですし・・・・ガイ」
名前を呼ぶことでこちらを向かせ、返事をしようとした唇に唇を重ねる。
相手は驚いたように目をまるくさせているのがわかったが、気にしない。
少しは遠慮が働いて、ただ触れるだけに留めて唇を解放する。
呆然と立ち尽くしている相手が我に返る前にジェイドは宿の中へとひきかえしていった。
「それでは、おやすみなさい。よい夢を」
ガイがはっとなったのはジェイドが扉を閉めた音がきっかけだった。
「・・・・・・・相談料、とか言わないよな・・・?」
口元を押さえながら、ガイは少し頬を赤くした。
遠くで子供が泣いていた。
誰かの名前を呼んで泣いていた。
泣く術を知らない。
呼ぶ名前もない。
泣く理由もわからず冷たい視線を送る。
泣く理由が見つかった。
しかし泣く術はわからない。
悲しみを笑顔として表情にしている人がいる。
泣く術を封印した人がいる。
悲しいのなら泣けばいい。
そのやり方を知らない人間の分まで。
その涙のあとに笑顔が戻ってくるのならば・・・ |